お彼岸のお中日に亡き人々を偲ぶ

秋のお彼岸です。

蝉の声が聞こえてくる三連休の最終日です。

庭の草取りをした後で、書いています。

秋のお彼岸が近づくと、我が家の玄関に玉陶山の白薩摩を飾ります。

昭和五十六年に、亡き祖母、青木コハキの長寿祝いとして頂いた秋草模様の大花瓶です。

白薩摩の大花瓶

白薩摩の大花瓶

長寿祝いの大花瓶を贈って下さったのは、海軍第12震洋隊の隊長であった故松枝義久氏のご遺族の方々です。 震洋隊というのは、海軍の特攻隊です。

第2次世界大戦中、日本海軍は震洋という木造の人間魚雷を作りました。 日本は天然資源に乏しい島国です。 金属が不足して、終戦が近づいた頃は人間魚雷も木製だったのです。

敗戦の前年である昭和十九年の秋に、故青木コハキの家へ、第12震洋隊長の松枝氏が、ひょっこり立ち寄られました。 海軍の特命を受けられて南方へ向う途中に、三池港に寄港されたのです。 数日後には出航と言う事でした。

故青木コハキは、戦前は青木高等洋裁女学校を経営しておりました。 戦時中は海軍の軍需工場として、軍服やパラシュートを縫っていたそうです。 又、青木コハキの弟(私の夫の父親)は、鹿児島の内之浦で港湾作りの仕事に携わっていたこともあり、隊長のお父上のご家族と親交がありました。 そのようないきさつもあって、松枝隊長は海軍兵学校時代には、広島の江田島と鹿児島の実家の往き帰りにも、よく大牟田に立ち寄って下さいました。

三池港出航迄の数日間は、大牟田の青木洋裁女学校の生徒さんが、三池港へ第12震洋隊の方々を慰問に行ったりしたそうです。

この時、私の夫は松枝隊長から「忠孝両全」という四字を短冊にしたためられましたものを、頂いています。

忠義と孝行は両方ともに完全であること。

松枝隊長にとって、忠とは国への忠義であり、特攻隊員としての使命でした。 孝とは親への孝ですから、究極的には長寿と子孫繁栄を意味します。震洋隊に限りません。 この相反する2つの思いを背負って日本を旅立ったのが、特攻隊の方々でした。

原子爆弾が2つ投下されて、日本は終戦を迎えました。 敗戦後、奇跡的な経済復興を遂げました。 平和で豊かな日本が実現したはずでしたが、東日本大震災で、大きな原発事故が起きました。 放射能汚染を食い止めるために、現場で作業する方々は、21世紀の特攻隊員と同じです。 これが表向きの平和の中で行われている、今の時代の戦争です。

松枝隊長のご両親は、ご子息が祖国日本の大牟田ですごした最後の想い出を大切にされました。 ご両親やご兄弟の方々の想いが込められた白薩摩の大花瓶なので、秋のお彼岸の頃に玄関に飾っています。

亡き夫も故人の家族や戦死なさった遺族の方々へは最後迄応え、毎年、川棚である慰霊祭には欠かさず行きました。 故松枝隊長の母上から戴いた作品「らんのはな」も大切にしていました。

想い出の品々を四季折々、大切に活かしています。

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